『枢軸の世紀』


第0話 「楽師来訪」―黒曜暦900年 10の月の晦日の夜 アザレにて―  
【T】
 百年期の最期の年の最期の月、そして夜が明ければ新年になろうという夜に来訪者があろうなどとは、 その村はずれの陋屋の主である貧しい農夫は考えてもみなかっただろう。
 幸い風のうねりは耳に遠く、雲はいずこにか失せ、月は厚く降り積もった雪を皓々と白銀に染めてしんと静まりかえってはいるが、 北国の晦日の夜など、およそ出歩きたくなるような風情ではない。 ましてや女房の腹が大きく、新年にも6人目が産まれそうな気配なのだ。
 このような晩は新年の晴れ着とささやかな馳走や香の用意だけを簡単にせませて、早々に寝床に入るのがよい。
 その農夫は後にいくつかの名で呼ばれることとなるが、その夜の彼の名はヨナスと云う、 貧しい水呑み百姓にふさわしいごくごく平凡な名であり、それ以上のものではない。 女房の名もいろいろな説があるが、どうやらよくわからない。少なくとも貴族のような大仰な名ではなかろう。

 来訪者が農夫の家の扉を叩いたのは、さほど遅くはない。 むしろ最期の薄暮が、完全に消え去ってからいくらもたたない頃合、 ヨナスは5人の子鬼みたいな我が子と、年寄った父母とともに食卓へ着き、 ちょうど皆でイシスへの簡単でおざなりな祈りをすませた時だった。
 一番年長の息子が耳ざとくその音を聞きつけてわめき出し、たちまち下の子らもそれに加わって、 獣脂の匂いのきつい灯明と暖炉の炎が照らす室内は騒然となった。
「誰かのぅ?」
 騒ぎたてる子らを怒声と拳骨で静め、ヨナスは扉の向こうの来訪者に訊ねる。 
 その問いに、来訪者は自分は旅の楽士であり、道に迷ってしまい途方にくれている、今夜一晩の宿を借りたいとの旨を口にした。 その言葉は自分たちのものとは異なるなまりがあったが、 元来人のよい農夫であるヨナスは、さほど疑うことなくその者を室内に招き入れることにした。

 その男は雪の染みがうかぶ漆黒の外套をまとい、このあたりでは見かけることのない幅広の帽子も黒く染めあげられている。 シャツやズボン、長靴こそは渋みのある焦げた土色であるが、あまりにも見た眼が黒色に支配されているので、 夜の精霊と見間違われかねないだろう。 竈神ヘパイトスの神所への巡礼者が黒衣を身につけると聞いたこともあるが、この男もそうであろうかとヨナスはふと思ったが、 背に負った4本弦のシラーが、妙に現実的な代物に見えた。 たしかに楽士なのだろう。
 背は高く、肩も胸も頑健である。そのくせ腰はすんなりとしており、敏捷な印象を与える。 そして年齢のはかりかねる顔。面長で頬骨も鼻も高く彫りが深い。 瞳も髪もまた漆黒。日に焼けた肌はなめした皮のようになめらかで、しかも強靭さを感じるが、ほとんど表情が知れない。
 ヨナスは年のころは40ぐらいであろうかと見当をつけたが、次の瞬間にはその見当に自信がなくなっていた。 もっと年かさのようにも思えるし、ずっと若いようにも思える。 ただ両の耳から髪の毛のように細い金の輪が下がっており、その輝きがヨナスには強烈に印象にのこる。
 ヨナスは後によく村の男衆に話したものだった。 整った顔立ちであり忘れがたい風貌であるが、しかし奇妙なことに眼をそらした次の瞬間たちまち忘れてしまい、 どのような顔であったか憶い出せなくなるような気がしたと。

 元々こんな北の辺境に余所者が来ることなど珍しいが、 平凡なヨナスですら来訪者が自分たちのような者とは――街の抜け目のない商人や工夫たちは無論のこと、 領主たちに仕える兵士や騎士たちとくらべてすら――どこか種類が違うことを、何となく感じとったのだ。
 貧弱な彼の想像力ではそのことを充分に説明することはできなかったが、 来訪者はただ単に余所者と云うより、いずこの者でもないように思われた。 だが彼はその違和感を、来訪者は流浪の民――ディラスポラであろうと解釈して、勝手に納得をした。 それならばこのあたりにも、脚の短い毛長馬に牽かせた馬車に乗って訪れたのを、何度も眼にしている。
 事実この男は正しい意味でまさしくディラスポラであるのだが、もちろんヨナスなどには、そんなことはついぞわかることはなかった。
 しかし、全身に黒衣をまとったその夜の来訪者のことを、そしてその後のできごとを生涯忘れなかったのは事実だった。

「見てのとおり、狭い家じゃがのぅ」
「納屋の隅でもかまいませぬ。雪風がしのげれば、文句は云いません」
 男はこともなげに云う。
「そんな無茶を云うもんでないのぅ。あんな処では凍えてしまうがな。母屋なら火もある。こっちに泊まるとええ。 ただ、女房の腹がでかくてのぅ、今夜にでも産まれるかもしれんから、それは覚悟してもらうがの」
 ヨナスは冗談めかして云う。男はうなずくと、懐の隠しから幾枚かの銭をヨナスへ差し出した。
「今夜の宿代代わりです」
 宿屋がもらうほどの金額だ。
「こんなにもらったらいかんがのぅ」とヨナスはしぶったが、再度うながされて、さほどこだわることなく受け取った。 男は炉縁へ行き、雪で濡れた帽子と外套と長靴を脱ぎ、物干しにかけた。
「あふくろや、ソップがまだあったろう。出してやるとよかろう」
 ヨナスの年寄った母親が暖炉にかけた大鍋から、湯気のたったソップをたっぷりと椀につぐ。男は小さく礼を云う。
「あんたは運がよいの。今夜は年追いの晦日じゃから、羊をつぶしたんじゃ」とヨナス。「楽士どのはこんな村に何の用かの?」
「ここの領主は古い馴染みです。明後日の新年の祀りに呼ばれてきました」
「ははぁ……楽士どのはモナ大奥様に呼ばれて……こりゃ失礼を。こない汚い家で申し訳ないですのぅ。 何なら今から名主の処へ移りますかのぅ。あそこならうちよりかは、ずいぶんとましですがの」
「いや」とかぶりを振る。「差し支えなければここで充分。身体も温まったし、また寒空に外に出るのは閉口ですな」
「まぁ、あんたがそう云うなら、わしは一向にかまわんが」
「かたじけない」
 そう云うと楽士はヨナスたちにの知らない印をきると、湯気のたつ木椀にさじをつける。 そんな来訪者を、子どもたちは興味の尽きない眼で遠巻きにしている。 楽士の方は気にする様子もなく、無表情で黙々とさじを口にはこぶ。
 ヨナスは5人の息子たち(一番下の子はようやく言葉をしゃべるようになったばかりだ)を追いたてて、 奥の小部屋――アルコーブに押しこむ。毛布にくるませるためにまた怒号と拳骨を使ったが、 子どもたちは一年の終わりの夜に訪れた未知の男への好奇心をおさえきれず、毛布の中から眼をぎょろぎょろさせている。 ヨナスが食卓にもどってきた時には、すでに楽士は一椀の食事を終えていた。
「騒々しくてすまんの」
 楽士は問題ないと云うように、小さく首をふった。
「女房がおればよいんじゃが、もう臨月でふせっておってのう」
「具合が?」
「いやそうでもないんじゃが、産気づかれるとちょいとこまるもんだからの。 村でたった1人の取りあげ婆が、自分の娘の子を取りあげるために街に行ってしまってのぅ、いかい迷惑じゃ。 そっちこそ他人に任せりゃよかろうに、まったくあの婆は信用ならんわい。だいたい女房が産むたんびに、死にかけじゃ。腕が悪いんじゃ」
「産むたびに?」
「おお、そうじゃ。女房のやつも5人も産んでおるくせに、毎度々々難産じゃまったく」
「そうですか……」
 楽士は少しだけ眉をよせた。

【U】
 夜のしじまをやぶり、あきらかに危急を告げる気配があり、 部屋の隅に藁をしき外套にくるまり横になっていた楽士は浅い眠りを脱ぎすてたようだった。
 上半身をおこす。寝室から女性のものとおぼしき苦鳴と、男の狼狽しきった声、扉のすきまからは灯明がこもれ、 それがうろたえているかのように激しく揺れ動いていた。石のような眼でしばし扉を凝視していた楽士は、静かに立ちあがった。
 扉を開けると、苦痛の激しいあえぎをたてる腹の大きな女が寝台の上で悶絶をしていた。 ヨナスがおろおろとその背中をなでさすっているが、激しくもだえるために何もならない。
「あ、楽士どの……」
 気がついたが、顔の色は蒼白で言葉も思いつかないようだ。
「何事だ?」
「おこしてしもうて……いやその、女房が急に……」
「産気づいたのか?」
「はぁ……もしかしたら、しかしその……まさか……」
 そう応えつつなでようとした女房の身体が、突然背をそらして硬直し、ヨナスは思わず声をあげた。 口からもれるあえぎが、気色の悪い鳥の鳴き声か笛のように甲高くなった。

 楽士が寝室に入る。灯明の灯りがゆれ、影もゆれる。
 毛布をはぎとると、満月のようにふくれた寝間着の腹に掌をあててあちこちを押してみる。 女房の口からは甲高い壊れた笛のようなあえぎが間断にもれ、顔は土気色になり額には脂汗がねっとりと浮いている。
「妙だな……」楽士は首をひねる。「頭がなぜこんなところにある?奥方、難産と云っておったが、 ひょっとして逆子だったのではないか?」
「へ……」ヨナスが呆けたように「へぇ、そう云えば取りあげ婆がそんなことを云っておったような……」
「莫迦者、しっかり聞いておかんか!」
「へ……しかしその……」
 楽士は女房の腹から掌を離した。視線は鷹のようにするどく、ヨナスの肝をちぢませた。
「今夜取りあげ婆はいないと、お主云っておったろうが。おそらくこの子も逆子だ。 奥方の身体の質かもしれんな。このままでは死産のおそれがある。それに奥方の命も危ないかもしれん」
「まさか?」ヨナスは顔を引きつらせる。 「産まれるまでまだ2旬はあるはずじゃ……そんな、どうすりゃええんかのう……取りあげ婆はおらんし……」
 その時女房のあえぎがさらに苦悶に変わり、突然とだえた。
「あッ!?」
「どけ」
 楽士がヨナスを押しのけて顔をのぞきこむ。悶絶していた女房の身体は、意識を失い今は弱々しく痙攣しているだけだ。 白目をむき、口からは気のぬけたうめき声が小さくもれている。
「あぁ、早く……誰かを……」
「おそらく月足らずだ。間違いない、産まれるぞ。村に取りあげのできる者に心当たりは? このままでは女房どのも腹の子も2人とも死んでしまう」
「おらん、おらん……おらんッ!逆子だなんて、わし……楽士どの、何とかならんですかいのう!?何とか、何とか……」
「だめだ。経験のある取りあげがおらねば、どうしようにもない」
「羊の仔が逆子じゃったら、脚に縄をくくりつけて引っぱるんじゃ。お、親父、隣に行って男衆を……」
「人間の子は羊とは違うッ!」ヨナスのうろたえを、楽士は一喝してさえぎる。 「へその緒が首に巻きついていたら、間違いなく死ぬぞッ!」
 楽士の表情は険しい。ヨナスは力なさげに椅子に腰をおろすと、泣きだしそうな顔で笑った。
「ああ……何でこんなことになるんじゃ」
 貧しい農夫は両掌で顔をおおい、しばし身体を震わせていたが、やがて何かをはぎとるかのように顔あげた。 血の気はひき、まださして老いてはいない農夫の面に、べったりと暗いおりがはりついていた。
「それならせめて、女房だけでも助けられんか…… 腹の子はええ、あきらめます。子どもならまたできる。わしには女房のほうが大事じゃ……」

 楽士が扉に眼をむけると、いつの間にか起きだしたヨナスの年老いた両親と幼い子らが、 寝台の上の女房とヨナスと楽士とのやりとりを不安そうに見つめている。 楽士は彼らのうんだような表情を暗い眼でしばし凝視していたが、やがて渋々と口を開いた。
「……あきらめるなどと、簡単に云うものではない」楽士の言葉は硬く、陰鬱のひびきをもっていた。 「……そなた、万が一があってもうらむなよ。どの子でもよい――わたしの荷を持ってきてくれぬか。枕元に置いておいたのだが」
 楽士が静かにそう云うと、一番年かさの少年はぎょっと跳びあがるように反応し、 そして彼が寝床にしていた場所へとあわてて探しにいく。少年が彼の荷を持ってくると、中をまさぐり小さな皮袋を取りだした。
「部屋を暖めろ」楽士が確たる口ぶりで彼らに命じる。 「湯をうんとわかして、新しい手ぬぐいをありったけ持ってきて熱湯で一度消毒をしなさい。 汚いままでは使えぬぞ。消毒に使うのとは別に湯をわかしておくのも忘れないように」
 楽士の指示に腰の曲がった老母が、広間の暖炉にかけたままになっている大鍋にさらに水を足す。 年かさの子どもたちは背中を押されるように家中の布切れを集め、老父は手あぶりにさらに炭をおこす。
「亭主、甘いものはあるか?」
「あ、甘いもの?」
「そうだ」
「わしらはそんな贅沢なものは買えんですわ。あるのはせいぜい乾燥させた甘藷のつるぐらいなもので……」
「ならばそれを使って粥を作りなさい。甘く薄くするように」
「へ、へぇ……?おふくろ、おふくろ、頼んまれてくれんかの」

 楽士が脂汗にまみれた女房の頬を何度かはたくと、白目にようやく焦点があう。息も絶え絶えだ。
「あ……」
「気をしっかりもちなさい。産気づいておる。逆子だが産むしかないぞ」
 眼の前の男が誰かまで気がまわらないようで、女房は楽士の言葉にうつろにうなずいた。 楽士は女房の膝を立たせ、ヨナスが持ってきた熱い手ぬぐいで手をぬぐうと、
「ゆるせよ」
 と脚の間に腕を差しいれた。女房がうめき声をあげる。
「やはり産み口が開いておる。何としてでも産んでしまわないと危険だ」
 そう云うと今しがた荷から出した皮袋から、何やら乾燥したひねこびた木の根のようなものを取りだし、細かく砕きはじめた。
「さてさて、一晩の宿代には高価すぎるしろものよ」
 自嘲するようなその小さなつぶやきは、誰の耳にも入らなかった。 楽士は荷の中から乳棒と小さな薬研を取りだすと、砕いた木の根をさらにすりつぶしはじめた。 ヤモリほどの大きさもない木の根は、たちまち薄汚い粉末となる。
「粥ができましたぞ――」
「こちらへ」
 楽士が命ずると、ヨナスの老母が湯気のたった粥の木椀を持って駆けよる。粉末を粥にまぜる。
「楽士様、それは……?」
「案ずるな、身体に悪いものではない」
 楽士はヨナスをうながし、がっしりとした女房の上半身を2人がかりでおこすと、椀を口許に持っていく。 女房の豊かな胸が大きく不規則に隆起する。楽士が慎重に椀をかたむけると唇の端からちびりちびりと、少しずつ流しこんでいく。
 苦しいのか、朦朧としながらも女房は顔をしかめ、いやがるように顔を振るが、 楽士は慣れた手つきでおとがいを押さえ、こぼれないように長い時間をかけて、ようやく中身を飲ませてしまう。
 不快気に顔を振って女房は何とか嚥下する。
 楽士は女房を再び横たえる。灯明のゆらぎが陰鬱な陰を浮かび上がらせ、ぜいぜいと荒い息が粗末な部屋の中に響く。 幼い子どもたちが息を呑んでいる気配がする。
「楽士様、今のは薬で?」
 息苦しさに我慢できずヨナスが訊ねる。
「心の臓に気付けを与える薬草だ。このままだと女房殿の身体がもたん。 甘いものといっしょに摂ると効きが早い――案ずるな、薬師ではないが、旅をかさねるとあちらこちらでまねごとをするようになるのだ。 これが効けばなんとか……」
 楽士が女房の頬を軽くはたくと彼女の身体はびくりと震え、まぶたが大きく見開かれた。 しかしその瞳は焦点があっておらず、目じりは細かく痙攣している。
「む……どうにかいけるか……?」
 楽士は、脂汗が浮き青黒くむくんだ女房の耳元に顔をよせる。
「女房殿、よいか――?」
 静かな楽士のささやく声。それは彼らが忘れていた何かを、不意に憶い出させるような、そんな声だった。
 そしてその瞬間、その声に呼応するように、風が吹きこまない寝室で灯明皿の炎が何の前触れもなく激しく揺れ、 部屋のおちこちに深いかげりを落とし、何やら得体のしれないぞっとするものをヨナスに感じさせた。
「今産まなければ、お主も腹の中の子も命はないぞ」
 まるでその言葉に引きずり上げられるように、意識をなくしたまま虚ろだった女房の瞳に突然弱々しい光がもどってきた。
「わかるな?」
 血走った眼が楽士を見上げる。楽士もまた女房を見下ろす。 見たこともない楽士から見下ろされ、長い時間をかけてヨナスの女房は、ようやくに自分のなすべきことを憶い出したかのようだった。
 何かを云いた気にひび割れた唇がかすかに動いたが、言葉にはならなかった。 しかし苦痛にゆがんだ顔はおびえながら弱々しく、しかしはっきりとうなずいた。

【V】
 手あぶりにいっぱいにおこした炭火で、寝室はたまらないほどに熱気にあふれている。 灯明が人の動きにつれて激しく、そしてまた弱々しく不規則に揺れ動き、室内に妖しげな陰影を描き出している。 さながら部屋の中には人とそれ以外の影の魔物がうごめいているようだった。
 楽士の掌が女房の丸く膨らんだ腹をゆっくりと押し出すように、何度も身体の重みをかける。 そのたびに苦痛の声をあげて、どこにそんな力がと不思議に思えるぐらい彼女の身体がこわばり、 ヨナスは必死になって押さえつける。
「まだだッ!まだ頭の位置が正常ではない。いきんではいかん!」
 楽士が叫ぶ。
 人間のものとは思えない苦鳴が女房の口からもれる。そうでなければ調子の狂った笛の音のような、荒々しい呼吸。
 今はもう産みに入ってしまっている。引き返すことはできない。 腹の逆子はどのような方法をもってしても、母親の身体から外へ出ないといけないのだ。 できなければ死ぬ。母か子か、でなければ2人ともが。
「何をしているッ!力をゆるめるな!」
 わずかでも押さえつけているヨナスの力がぬけると、楽士から容赦のない叱責がとぶ。 ヨナスも楽士も、顔中から汗をしたたらせて必死になっている。 楽士が赤子を押し出そうと力をこめるたびに、細い耳かざりが灯明の明かりをうけて、かすかにきらめく。
「楽士さま、逆子のままじゃ産まれやせんのではないかのう」
「子どもを産んだことのあるものなら、外からこうして元にもどすこともできるはずだ」
「と、取りあげの婆もよく似たようなことをしておりましたわい」
「ならばのぞみはあろう」
「本当ですかいのぅ……あ、楽士様、く、苦しそうじゃ、薬は?」
「あれは強い薬草だ。何度も飲むものではない」楽士は炯とした眼でヨナスをにらむと、また女房に視線をもどした。 「呼吸を乱すな!いま少しだ。産むぞ、なんとしてでも産んでしまわねば、そなたも子も命はないのだ!」

 女房の身も世もない、悲鳴に似た声あえぎ声と激しい呼吸。ヨナスのうめき声。低く強くしかりとばす楽士の声。 寝台のきしみ。ちりちりと音をたてる手あぶりの炭と、時折はぜるたきぎ。 老父母は口の中で小さく祈りの言葉をつぶやき、のぞくことは許されずに夫婦の寝室から追い出された子どもたちですら、 一睡もすることなくけたたましい有様に寝床の中でおびえたように聞き耳をたてている。
 濃密でねばっこい時が過ぎ去っていく。
 農婦の腹の中にいる赤子の命運が定まる時が近づいている。
 生か――
 死か――
 いや、赤子だけではない。その母親の身すらも、ことここにいたっては、いかんといもしがたい。
 ただただ祈り、誰もが息をつめて、その時がいずこへ流れていくのかを凝視しているしかないのだ。

 どれぐらいそうしていたか、もはや誰にも見当がつかない。
 不意に――女房の今はもうかすれきった悲鳴が、ひときわ混迷と恐怖の絶叫へと変じ、 ヨナスが狼狽の声を上げ、そして頼りなさげな嬰児の泣き声が……それに重なった。

* * *

 あとの処置をヨナスの老母にまかせて楽士は寝室から出、水桶から冷えた水をくみ、両の手の血のよごれをていねいに洗い流す。 手ぬぐいできれいに水気をとってしまうと、寝床として借りていた部屋の隅に腰をおろす。 終始無言であった。疲労の色が濃い。年齢のわからぬ風貌に、さらに深い翳りが彫りこまれていた。
 部屋の中では老母とヨナスがへその緒を切ったり、後産をかたづけたりしている様子がもれている。 赤子の弱々しい泣き声も、不規則に耳に届く。 ものめずらしそうに赤子と楽士を遠目から眺めていた子どもたちも、いつか寝台にもぐりこみ、今は眠りについていた。
 どれぐらいそうしていたであろうか。楽士は寝てはいなかった。 うつむき腕を組み、背を壁にもたれかけ、寝室からもれ出る灯りと部屋の中の様子を知覚していた。
 誰かが寝室から出てきた。
「楽士様」話しかけてきたのは老父であった。「赤子がこのようなものを」
 差し出したものは、小指のさきほどの純白の真ん丸い石――おそらくは石であった。
「これは?」
「はぁ……」困惑の表情で「片手を真剣に握っておったんで開いてみたら、これをにぎっておりましてのぅ」
 さすがに楽士も驚いたようだった。
「こんなこと、あるんですかいのう?こんなもの持って産まれてくるなんて、なんぞ不吉じゃなかろうかい?」
「まったくないことではない」掌で転がしつつ楽士はかぶりを振る。 「イーステジアの初代皇帝、太陽王レムスは、10個の石を持って生まれてきたと伝えられている。 これは彼を皇帝に推戴する10人の王をあらわしているそうだ。 それに学びの都レーヴルに初めて大学を設立したプリニウスも、掌に石をにぎって産まれてきたと云われている。 またヌアールの簒奪者ナムゲルや、バージャクの乱の首謀者クレメンスなども似たようなハナシが伝わっている……しかし、ふむ?」
「は……はぁ?わしの孫もそんな謀反人みたいな……?そんな物騒なことに、わしらは関係はありませんです」
「いや迷信であろう。身体に石のできる奇病もある。母親の腹の中に石が入ることがないとは云えまい」
「ああ、そうですのぅ」
 単純な老父は安心したように何度もうなずいた。
「しかし……」ためすがめすその石をながめつつ 「こんなに完全に丸い石とはの……私も聞いたことがない。何とも知れぬが、護り袋にでも入れておくがよい」
 楽士は石を老父に返すと、かたわらのシラーを引きよせ詩情のおもむくまま低く静かに爪弾きはじめた。
   夜のしじまに唐突に静かに流れはじめた弦の音に、ヨナスやその妻や老母たちですらも思わず手を止めた。 それはヨナスやその老いた親たちには聞いたこともない調べであり、嫋々とたなびき、響き、 おおわらわの一夜をへて疲れきった者たちにしみこんでいく。
 ふと気がつくと、嬰児の弱々しげな泣き声はいつの間にか聞こえなくなっていた。 きっと母親の胸の上で小さな寝息をたてているのだろう。 

 まもなく夜が明けようとしている。100年期の最初の1年がはじまろうとしていた。
 そしてその新しい100年期がはじまろうとする前の夜、雪に閉ざされた貧しき寒村で、 見知らぬ楽士に取りあげられてその赤子は生まれた。

【W】
 新年の陽がのぼるのと時を同じくして、ほとんど眠ることなく楽士はヨナスの家を辞した。
 農夫はしきりに引きとめようとしたが、楽士は約束があるからと断わり、 ならばせめて礼をと云う彼の申し出にも、わずらわし気にかぶりを振るばかりだった。
 少ない荷とシラーを肩に背負い、再び黒い外套をまとい唾広の帽子を深々とかぶると、白銀にきらめく朝の雪原に脚を踏みいれた。
 楽士の出立を見守っていたヨナスは、名をまだ訊いていなかったことに不意に思いいたった。
「楽士様」
 楽士が振り返る。細い金の耳飾が、朝日を受けて一瞬輝いた。
「あの、お名前を、お名前を聞かせてもらえんですかのう」
 楽士はしばしヨナスを見やっていたが、やがて真綿のような息をはきながら低く、だがはっきりと自身の名を口にした。
「ノルナゲスト」
 その一言だけで、楽士――ノルナゲストと奇妙な名を名乗った漆黒の男は再びきびすを返し、彼自身の旅を再開した。

* * *

 5日ほどがたつ。
 取りあげの婆もおらず、あやうく命を落としかけたその赤子は、 産まれた時の騒動などまるでなかったかのように今は母親の乳を吸い、眠り、泣き、 ヨナスの一家はそのけたたましさと新年の祝いごとが重なり、たちまちあわただしい数日が流れていった。
 そのあわただしさの中にあって、あの奇妙な楽士のことを憶い出すのも、知らずまれになるヨナスであった。

 幌をかけた2頭だての馬車がやってきたのを、大声で知らせたのは寒空の中でも外で走りまわっていた長男だった。 暖炉のそばで春撒きの種を選りわけていたヨナスが腰をあげて外へ出てみると、たくましい栗毛の毛長馬にひかせた馬車は、 もう我が家のすぐそばまで近づいていた。幌にたなびく幡の紋を見て驚いた。
「モナ大奥様じゃッ!?」
 その声に老いた父母も屋外に出てきた。粗末な陋屋の扉近くまできて馬車は止まる。 御者が幌をあげると老女が降りてきた。外套に身をつつみ厚いマフに手を入れたまま、ヨナスがかいておいた雪道を、 脚元を気づかうそぶりも見せずに軽がると達者に歩く。

 彼女の息子が今の領主となるまでの数十年を、モナは女領主としてこの小さな荘園の領民を差配してきた。 年寄りたちは今でも40をすぎた現領主よりも、隠居した彼女に深い愛着をもつ者も多い。 娘時代から淑女の型にははまりきらない豪気な質で破天荒なおこないもあったと云われ、 ずいぶんと当時の領主であった父親をやきもきさせたものだったらしいが、 髪もすっかり白くなり深いしわがきざまれてはいるものの、娘時代から噂されていた美しさとともに、そ の性情は今では老いた風貌の中にしっとりと落ちつきをみせている。
 何でまたモナ様がうちにおいでになったんじゃあと思いながら、ヨナスはあわてて頭を下げる。 老父母がそれにならうが、子どもたちは何がなんだかまるでわからず、突然あらわれた身なりのよい老女を珍しげに見上げている。
「モナ大奥様、ご機嫌うるわしゅう。今年も実り多い年になりますように」
「実り多き年を――ヨナスと申したな。ノルナゲストが世話になったと云っておりましたよ」
 年齢を感じさせない快活さでモナが云う。
「は、はぁ?」
「あの男が産婆のかわりをするなど奇妙なことだと思って、その赤子とやらを見にきました。差し支えなければ見せてくれませぬか?」
「モナ様はあの楽士どのと……?」
「古い馴染みですよ。わたくしがまだほんの小娘だったころからの」
 モナはおだやかに微笑しつつそう云った。
「は、はあぁぁ?」
 髪がすっかり白くなったモナ大奥様の娘時代からの知り合いと聞き、ヨナスはすっかり驚いてしまった。 40かそこらに見えたあの楽士、えらく若く見えるものだのぅ……と。

 粗末なヨナスの家屋にも別段気後れする風はなく、モナは扉をくぐる。
「おいお前、モナ様じゃ」
「あんた、何をたわけたことを、モナ様がこんな家におこしになるなんて……」
 寝室では寝たままの女房が驚いて身体をおこす。あわてて身づくろいをしようとした女房を、そのままでと押しとどめる。
「難産だったそうだな。身体をいたわれよ」
「ありがとうごぜぇます」
 お産の疲れがだいぶにもどってきた女房が、ほっとしたように礼を云う。
 モナは隣に眠る赤子をのぞきこんだ。
「おお、血色がよいの。丈夫に育ちそうだ。おのこだと聞いたが?」
「へぇ」
 モナは人差し指で赤子の額にそっと触れて印をきる。
「祝福を」
「へぇ、もったいないことです」
「赤子の名はつけておらぬな?」
「名づけ日になっとらんですからまだですの」
「わたくしがつけてもかまわぬか?」
 ヨナスはたまげた。モナ大奥様が名づけ親になってくださるなんて、とても信じられない。村中の噂になるだろう。
「そ、そりゃもちろん、かまうもかまわないも……よろしいんで?」
「ええ、ゲストが取りあげた子とはおもしろいと思いましてね」
「あの方はお屋敷に?」
「2日の晩の新年の宴が終わったら、翌朝さっさと行ってしまいましたよ。 わたくしはこんなに老いてしまって、もう二度と逢うこともできないかもしれないというのに、何の未練もなく。あの人はいつもそうだ」
 そう云い、モナはおかしそうにそして少しだけさびしそうに笑った。ま るで少女のようにはにかんだ笑顔だったなと、ヨナスは後にそのことを憶い返すたびにそう思った。

* * *

 産まれて7日目の名づけ日に、その赤子はトマと名づけられることとなった。
 アザレの地方の古語で「歩く者」といったような意味がある。 ロマやトーマなども同じ意味を持っている。
 このあたりではよく使われる名であるが、石をにぎりしめたこの世に生を受けたこの赤子は、 まさしくその名のとおり2つの大陸を、生涯をかけて“歩き”とおす数奇な運命をたどることとなるのだが、 そのことを知る者など、無論今はいない。

 トマ――父の名はヨナス。何のとりえもない貧しき百姓であった。
 母の名は正確には伝わっていないが、やはり土くさい農婦であった。後にさまざまな名で呼ばれることになる。
 そしてヨナスの老父母すなわちトマの祖父母の名や、兄弟の名もよく知られることになる。
 また名づけ親である、雪に閉じこめられたような小さな荘園アザレの元女領主モナの名も列せられる。
 しかし100年期の最期の夜に農夫の家屋をおとずれて一夜の宿を請い、 偶然トマを取り上げた奇妙な楽士の名は、不思議なことに伝わっていない……

(了)

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